妄想力とわたし?

優れた本や映画、舞台にドラマ、そして絵画。これらに共通するのは、まだ見ぬ明日の自分の姿なのではないか、と思う。

私たちはいつか必ず死ぬし、絶対にすべてを選ぶことは出来ない。何かを手放す代わりに何かを受け取る。そういう仕組みになっているのだとある時ふと、そんな答えに似た考えが降りてきた。

たとえば、目の前にあるチョコレートを食べるか、食べないか。食べれば「食べない」という選択肢を捨てることになるし、その逆もそうだ。(でもふだんはそんなことほとんど意識しないで選択を繰り返している)

だけれど、わたしたちはその両方の可能性を欲しいと願う。もしくはより利益の高い選択肢を選びたいと願う。それは本能というものかもしれないのだけれど。(少なくともわたしはそうだ)

で、結局のところそれらの芸術を通して、もし自分がアーチストだったら、なんて妄想を描く。もしかしたら画家はサラリーマンに憧れていて、満員電車の写真を自分のアトリエにこっそり飾っているのかもしれないけれど。

だからわたしは、多くの書籍や映画、舞台にドラマ、絵画を見れば見るほど「妄想力」がふくらみ、豊かな人生を夢見ることができるんじゃないのかな、と。そしてもしも、それらと同じような選択が自分の目の前に置かれたとしたらどうするか、というシュミレーションを繰り返している。

1本道

この間もわたしが大ファンの知人と話をしていたのだけれど、ものの見方というのはいろいろある。いろんな人がいるように、いろんなことが起こる。けれど、誰もが理解されたいと願う。言葉に出来ない気持ちを誰かに理解して欲しいと思う生き物だと思う。人は常に見返りを求めて生きている。それは時にお金であったり、気持ちであったり、カラダであったり、行動(時間)であったりする。

けれど、その交換において強欲や無理強いはよろしくないと思う。(だからこそ見返りを求めないくらいがちょうどいいバランスかもね)そして相手の視点を持たない人。そういうひととは関わりにならないようにしている。私の人生には必要がないからだ。わたしには、好きでない人と一緒にいる理由が見当たらない。人生は限りがあるし、どれだけドキドキするものと出逢えるか、そしてそれに自分の時間と集中力を使いたい。だからドキドキしない何かはバッサリと捨てている。たとえば、マックのハンバーガーもそうだ。今のところは。

その代わり、自分が好きなものはとてもとても大切にする。

わたしの周りにいる定期的にお逢いする人達は大好きな人ばかりで、自分はとても幸せだと思う。でも一方で私と一緒にいても時間の無駄だと思われたら、その時はバッサリ・・・されても仕方ないと考えている。そういう自由な関係だもの。そしてそれがフェアというものだ。

求めよ、さらば与えられん・・・しかし求めたからにはそれなりに努力し、結果を出さなくてはいけない。

そしてすばらしいものには必ずきちんとした結果がついてくると思う。だから結果はどうでもいい、と思ったことがない。

軽々しく決めてもいないことを口に出したくないし、いつも誠実でいるように心がけて生きている。

時にそれはひとりよがりで、間違いだらけで、偏見に満ちているけれど、でもそれも自分だから仕方ない。完璧は目指していない。世間にどう思われようとかまわない。正論を言ったところで非現実的なら、そんなの無意味だと思わない?間違えたときには素直に間違えましたといえばいいし、修正すればいい。ダメかもしれないけれど、自分にウソだけはつかない生き方を選んでいる。

いつも答えは自分の中にある、とおもう。

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